素晴らしき先達・先輩の言葉はその道を目指す者を勇気づけてくれるものです。ここでは、出会ったそうした方々との思い出を書いています。

昔尊敬している教授に言われた

出典 www.ryokou-ya.co.jp
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宴会たけなわのときに言ってくださった言葉です。

 

教授*「そうか、教員になったのだね、君がねえ(笑) いいかい、教授になっても、年に1本くらいは自分で論文を書くんだよ」(東大に赴任した後に祝いの言葉とともに)

自分(井上和男)「はい、できたらもっと書きたいですが」

教授「いいや、そうなったら君は若手を教えなくちゃいけない。2-3本も書いている場合ではない。でもね、全く書かなくなると、研究者・著者としての勘が磨り減っていくんだよ。これはゆっくり来るから本人も気づかない」

自分「そんなものでしょうか」

教授「そんなものだよ(微笑) それで勘をなくしてるのに会議でとんちんかんなことを言って、それでも若手は従わなきゃならないから困ってるのもよくある構図だね」

自分「まるでアンデルセンの童話に出てくる裸の王様ですね、教えていただいてありがとうございます」

教授「僕も昔はきっちり仕事していたんだけど、最近はすっかり勘がすり減ったなあ(笑)」

自分「何をおっしゃいます、まだまだ我々を引っ張ってください」

教授「いいや、これからは君たちの時代だよ。でもね勘はすり減ってもできることがある」

自分「それは何でしょうか」

教授「若い人たちの仕事をしやすくすることだよ、自分がわからなくても邪魔はしない。それに僕の頭は、若い人たちのために誰かにお願いをする、つまり「頭を下げる」ためにあるんだ(笑)**」

自分(内心)「これほどの業績があってこの物腰、自分こそ先生に頭が下がります」

この後二人で笑い、酒を飲み交わす。

 

*この先生から一度も自慢らしき言葉を聞いたことがない。「実るほど 頭の垂れる 稲穂かな」とはよく言ったものである。

**これに続けて、「例えば、若い人の研究分野が僕の専門じゃなかったら、それでも僕は受け入れるんだよ。僕の講座の分野は、僕の専門領域よりずっと広いからね。そして、必要なら、君の研究を指導してくれる適切な人がいたら、僕のほうから頼むからねと話し、実際そうする。そして僕の分野と、そこに集う若い人がレベルアップしていけばそれでいいんだ

 

Note:例えば、「僕はあまり詳しくないから、Inoue Methods作成者に入ってもらうように頼んでみるよ」という上司は、間違いなく良い研究指導者です(普通はプライドが邪魔して、なかなかできないんですよ、これが)。

五十嵐正絃先生の言葉

小児科って大学病院にいても一番多く来るのは風邪なのですね.それで,私が一番よく聞かれる 質問というのが「お風呂に入れてもいいですか?」ということでした。出典:http://www.jadecom.or.jp/
小児科って大学病院にいても一番多く来るのは風邪なのですね.それで,私が一番よく聞かれる 質問というのが「お風呂に入れてもいいですか?」ということでした。出典:http://www.jadecom.or.jp/

(母校に教員として赴任した1995年、あの忘れられないだみ声で)

「僕はねー、学位持っていないんだけど、みんなには取ってほしいと思っているんだよー」

 

AdrenoleukodystrophyHarrison Textbookに名前が残る五十嵐先生には不要であろう。後日、五十嵐先生が自治医科大学を辞すると聞いて、在任中に学位をとりたいと思い審査を受けた。学位取得の指導教授が五十嵐正絃先生であることには、胸を張っている。

先生が仰っておられた「日常的なありふれた問題の(まだみつかっていない)答えを探る」というのは、そのままPractice based researchの本髄である。先生には幾多の教えた後輩がいるが、その中でも先述のおっしゃっていたことを追求しつづける、その先陣を切り続けたい。

 

Note:五十嵐正絃先生は多くの若人に影響を与えました。しかしながら、先生の思いを発展させていくべき次世代がその責を果たしたかというと、残念ながらそうではないと思います(自分自身を含めて)。ほとんどの人は仰っていたことをスローガンのように唱えるだけで、実践してこなかった。先生の仰られた「10の軸」を進めるために、教育と、そしてそれ以上に研究の推進が求められています。それを実践した者だけが、五十嵐正絃先生の弟子といえると、思っています。なお、五十嵐正絃先生の講演は、たからぎ医院(小児科)のサイトでダウンロード可能です。

 

中尾喜久初代自治医科大学長

中尾喜久先生胸像
中尾喜久先生胸像

1982年3月、卒業式の壇上にて、中尾先生は卒業生一人一人と握手された。

「しっかりやりなさいね」とのお言葉。

思えば、中尾先生と在学中1対1で言葉をいただいたことはない。あまり勉強熱心でなかった自分は、「がんばります」とかすれ声で答えるのが精一杯だった。

あのときに握手した、中尾先生の赤子のように柔らかい手の感触は、30年たった今もしっかりと記憶に残っている。

中尾先生が自治医科大学設立時に招聘した、東京大学を中心とした教員の先生方がいかに素晴らしい方々であったか、このときはまだ知らぬ自分だった。

卒業後何年もたって、幾度かお会いすることがあった。以前から柔和な笑顔でいられたが、一層とまるで「好々爺」のような優しげな風情で卒業生に接されていた。これもまた鮮明な記憶として、自分の中に残っている。

*画像出典(自治医科大学同窓会)