土佐の徒然草

兼好さんの絵 うーん、物書きは今も昔も変わらんなあ(クリックで拡大) 出典:Wikipedia Commons
兼好さんの絵 うーん、物書きは今も昔も変わらんなあ(クリックで拡大) 出典:Wikipedia Commons

Inoue Methods作成者の独白です。まさに吉田兼好のあの徒然草の最初の文章みたいなものです。

 

つれづれなるままに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(原文)

 

暇にまかせて一日中机の前にいるときに心に浮かんだことを適当に書きとめておいたものである。したがって、実にくだらない馬鹿馬鹿しいものである(現代新訳出典→Inoue Methods作成者の好みです^^)

 

よいよ今日はひまやきね、何ちゃあせんと机の前におったがよ。ほいで思うたがばあをちっくと書いたがやき。ほいじゃきに、まっこと用事にならん、「てんごのかわ*」じゃきにねーー(Inoue Methods作成者による土佐弁)

 

*てんごのかわ=しょうもないこと、いらんこと

 

次はInoue Methods作成者による語りです^^

Inoue Methods公開の理由

「理路整然とした研究セミナーで余計自分には縁遠いものに感じる」症候群の原因です クリックで拡大
「理路整然とした研究セミナーで余計自分には縁遠いものに感じる」症候群の原因です クリックで拡大

Inoue Methods作成者がこのように自分の経験を公開した理由を書きます。

 

1. 研究指導のQ&A集として

 直接・間接に関わらず人を指導するときに同じことを話すことが多いです。例えば文献データベースの使用法などの各論から、論文作成の基本的考え方まで多岐にわたります。指導者としての時間節約としても、一度書き留めておいたらそれが再利用できるからでした。「サイトをみてそれから質問してきて」あるいは「僕のサイトに書いてあるよ」、いわば広義のQ&A集です。ネットにありますからユビキタス、誰でもどこでも見られますしね。ですので、自分が指導している人以外にも参考にしてもらって一向に構いません。

 

2. 大学院など研究指導を受ける時の情報として

 大学院ほど実は、「入ってみなくちゃわからない」教育の場も珍しいです。Webやパンフレットには様々、素晴らしいことが書いてあります。「当講座では内外の経験ある研究者による指導を提供しています」とあったとしても、それが本当かどうかは入ってみないとわからないというのが実情です(指導者の筆頭業績を調べるのが一番です、現実には)。Inoue Methods作成者は、自分の指導を受けたいと思っている人に「こんなはずじゃなかった」と思われるのは心外ですので、きちんと事前に情報を提供します。大学院だって学費もかかるわけですから、きちんとした教育が提供されるべきです。私もまた、「自分がしてきたこと」しか教えられません。再び、Disclosure is 'Panacea.'(情報公開は万能薬である)です。

 

3. 研究は泥臭いものであるが語られない

 「漠然とした疑問の定式化」からこうすれば研究デザインが組める、研究が始められるというようなメッセージをよく目にします。Inoue Methods作成者に言わせれば、ベルトコンベヤーじゃあるまいしそうそう理路整然としているわけではありません。特にPractice based researchに言えるでしょうが、日常で起きている雑多な事柄から取り組むべきものを見出す、それはスーツやパーティドレスを着ているときでなく、普段着のときに見つかるものです。研究者の労苦がにじみ出るような学習経験でなければ、自分の場に戻った時に役立ちません。Inoue Methodsではまさにそこを学んでほしいと思います。

 

眼高手低(がんこうしゅてい)

最近、ある人から教えてもらった。

  • 目は肥えているが、実際の技能や能力は低いこと。知識はあり、あれこれ批評するが、実際にはそれをこなす能力(創作力)がないこと。
  • 眼高手低 用例
    眼高手低になっている初子は、人の作品の批評はよく出来るのだった。<瀬戸内晴美・青鞜> 出典:Goo辞書

題目を唱えるのは上手だが、では何をしてきたかと言うと内容に乏しいということでもあろう。どの分野でもそうだが、「旗手」を自認する人に多い気がする。

 

プライマリ・ケア、家庭医療、総合診療、医学教育での問題点は、知の円状構造での深みのなさだ。いずれも学究の「学」が必要なのに、それよりもメディア受けする旗振り役が注目を浴びる。そしてそれだけで終わってしまい、時が変われば「旗手」が交代するだけだ。

 

例えばEvidence based medicineだ。論文の批判的評価も良かろう、だが、もっと大切なことは自分自身がEvidenceの発信者になることではないのか。批評家多くして、創造者が少なければ、その分野は頭打ちになっていく。

 

「批評家より、創造者になりなさい。どんなささいなことでも、はるかに意義がある」

(数多くの先達の言葉)